癌になったおとーとわたしと

癌になったと聞いて、残そうと思ったことを書くことに決めた。

誕生日のケーキ

寡黙でロマンチストでもなんでもなく、客観的にそんな気も使えなそうなおとーだけど、家族の誕生日には必ず地元のケーキ屋さんのホールケーキをちゃんと注文して買ってきてくれた。

田舎のケーキ屋だからとってもスタンダードないちごのショートケーキ。でも、私の誕生日になると本格的な冬が来てクリームが溶けづらくなるから、生クリームがチョコレートバージョンのが季節限定で売り出される。おとーはそれを買ってきてくれて、自分の誕生日だけチョコレートバージョンなのが嬉しかった。

夕ご飯の後に家族5人揃って、電気を消してローソクに火をつけて、ハッピーバースデー歌ってケーキを食べるのが恒例だった。よくある光景だろうけど、私の彼は全くと言っていいほどお祝いをしてくれないから、今になってありがたみを感じるし、私は誕生日には最低でもケーキでお祝いして欲しい体になってしまっている。


記念日には何かしらで表現するのがおとーだった。家族の誕生日だけでなくわたしの誕生日の9日後にもおとーはケーキを買ってきていた。

その時はホールケーキじゃなくていろんな種類のケーキを買ってくるから、小さい時はあんまりわかってなかった。おとーがケーキ買ってきたなーやったーくらいだった。結婚記念日を知ってから、毎年ケーキ買ってきてたのはそれだったのかと気づいた。


おかーの誕生日には買い物に付き合わされた。近くのジャスコだ。誕生日プレゼントを選べと言って、エプロンをよく買ってたのを覚えてる。

その中でも私が高校1年生くらいの時に、またプレゼントを買いに行くぞとジャスコに連れて行かれて何買うのかなーと思ってたら、アクセサリー売り場に行ったのだ。

高校に上がる時に、私はピアスを開けたいとおかーに相談して知り合いに開けてもらったんだけど、そこでおかーもピアスを開けたのだ。それを知ってか知らずか(興味もないと思ってたけど)、ピアスならどうかと提案してきたのだ、、!

アラフィフに差し掛かっていた時だけど、ちゃんとプレゼントをする意識があったんだっていうことと、なんだかんだ何をプレゼントするかある程度考えてるってのがやるなぁと今思う。

私の彼は全くと言っていいほどお祝いをしてくれないから、今になって思いやりを感じるし、私は誕生日には花の一輪でもいいからお祝いして欲しい体になってしまっている。

そう、おとーの話をしながら私の彼が誕生日をこれっぽっちも祝ってくれないことに不満を持っているという話でした。

それもこれもおとーがちゃんと記念日を祝う環境で育ててくれたからだ。

5年前の入院②

私は思ったことをなかなか口にできない性格を生まれた時から持ち合わせていたので、言いたいことはたくさんあるけどうまく伝えられる自信がなかった。


小さい時から本音を言おうと思うと泣けてきてしまうのだ。そうなると感情的になってしまい言葉選びに失敗するわ本来そこまででもないことが大きくなって伝わってしまうわで、相手にどうしたら正確に伝わるかいつも悩んでいるくらいに拗らせているため、おとーにもどうやって想いを伝えたらいいのか悩んでいた。


代弁してくれるようなものはないか空港で本屋に立ち寄り、今思うと酷い選択なのだが「老後の7つの楽しみ方」的な本を買った。60歳になったばかりに老後という本のチョイスはさすがに早くてよくなかったといまだに後悔はしているが、要はただ家にいてもつまんないでしょ!なんかしなよ!というのを伝えたかった。あとは家から中学高校あたりに使って残っていた封筒と便箋を引っ張り出して手紙を書く準備だけした。


空港からそのまま病院へ。お腹に水が溜まったって管が通ってベットに横たわるおとーを見るとやっぱり堪えた。でも話はできるし笑うと管入れるのに穴開けたところが痛いから笑わすなというおとーを見てこっちも安心した。顔を見ることは大事だなと思った。


次の日はおかーが仕事だから歩いて病院に行くことにした。会ってもやっぱり大した話はできないけど、体力落ちてるんだから無理しないようにしないととか急に動かないようにとかそんな話をした気がする。挑戦しようと思ったけど、面と向かって本音を言えないなと思った。泣いてしまってうまく伝えられないからだ。


空いてる時間で小学校に上がる時に買ってもらった昔はどの友達の家に行ってもあった頑丈な木の机に向かっておとーに手紙を書いた。もはやなんと書いたのか詳細はうる覚えだが、こんな感じだったと思う。


姉妹の中で中身は1番おとーに似てると思ってる。事務作業も細かいことをコツコツするのは完全におとー譲りだ。

そんな個人プレー向きに見えても、人の為になることをした方が我々はいい。

今自分はそういう仕事をしてなくて日々つまらなくて誰のためにもなってなくてつらい。忙しすぎてではなくて、暇すぎて何の為にいるのかわからないストレスで自律神経もやってしまった。

おとーも退職前は町のために働く人だったし、祭りの実行委員とかやって帰ってくると疲れたじゃーって言いながら生き生きしてたよ。

自分の為だけに生きれる人じゃないんだ我々は。

まだまだ元気でいてほしいから、ただ家にいるんじゃなくて週に2回でもいいから何かの手伝いとか仕事っぽいことをした方がいい。


こんなことを書いた。それはもう大号泣しながらだ。


そして「老後の7つの楽しみ方」的な本に挟み、高い位置にあるおとーの物を置く場所にそっと置いておいた。次の日、暇つぶしにでもって本置いておいたから退院したら見てねと伝え、家に帰った。


その後おとーはその本や手紙をどうしたのか知らない。


でも退院後の次の年から週に数回だけ仕事に出るようになった。声が届いたと思ってとっても嬉しかった。


5年前の入院①

前にもおとーは我慢しすぎて入院したことがあった。


5年前の年末に、体調が悪くてしゃっくりも止まらず愛犬に吠えられ、ご飯もそんなに食べられず薬とドリンク剤を飲ませたけど朝方に嘔吐したみたいだとおかーから教えてもらい、さっさと病院連れて行けと姉妹でおかーを捲し立てた。


そもそも仲が良くない両親なので会話もぶつかって成立せず喧嘩腰になるから、ちゃんと原因見てもらって治さないと年末帰省してもみんなで美味しくご飯食べられないよ!とおとーに個人的にLINEもしたが未読からの次の日も既読スルーだった。


そんな目に見えて体調が悪いなんて初めて聞いたから家族みんな焦っていた。次の日おかーは病院に連れて行き、その結果は胃腸炎との判断で点滴を打ってもらい薬ももらってだいぶ落ち着いたということだった。

年末の帰省の時にはそこまで弱っている印象はなく、回復してきているんだろうと思っていた。


おとーはその年に定年退職を迎え自由に生活をしていた。山にいって山菜採りや川釣り、家の裏に小さい畑も作って野菜も植え始めた。しかし、そこまでアクティブアウトドアではないおとーの生活の大半は、ほぼほぼ家にいて映画を見るか姉ちゃんに買い与えられたiPadの大画面で畑のゲームをするか昼寝か食べるか飲むかだった。見るからに痩せていきどんどん老け込むおとーに危機感を感じてはいた。


半年後におかーからおとーが入院したという速報が入った。胃と十二指腸に小さい穴があいていると診断された。あの年末のしゃっくりは、穴が空いているところから空気が横隔膜を刺激してのしゃっくりだったということもわかった。


2週間は食事はできず点滴で、手術はせずに薬と自然治癒で治すということだったが、定年退職後、ただただ家にいるおとーにそんな体力があるのかと思った。


本当に大丈夫なのかととてつもない不安に駆られ、姉妹を代表して急遽帰省することにした。顔を見たかったし、緊急で帰ってくるほど心配させているとわかってほしかったのだ。


おとーという人

おとーという人を語る上でまずはじめに思い浮かんだのは、私が22歳でまさかのおたふく風邪を患った時の会話だ。


私はその時、人生再出発した専門学生時代だった。夏休みで帰省していたある日の朝、あくびをしようとしたら信じられない激痛が顎を襲った。

妹の前で半泣きになりながら、口が開かない、ご飯が食べられないと訴え、おとーもおかーも仕事でいなかったため車もなく、しょうがなく数年ぶりに乗る自転車で町の診療所へ向かった。まだ漕げるなと安心したのを覚えている。


小さい頃に行ったことがある診療所は、息子が後を継ぎ建物も建て直してきれいになっていた。古い学校のような木の床がギシギシ鳴る廊下に達磨ストーブがあったとっても趣のある診療所はもうなかったけど、当時の先生は会うたびに珍しい名前だー(私の名前は初めての人は大抵読めない)と言って、茶色い甘いシロップの薬を出してくれたのを思い出した。懐かしい。


夏だったし自転車で行ったこともあり、待合室で熱を測ったら37.0℃くらいあって、今自転車漕いできたからかなーと看護師さんに話した。息子先生の診察では熱もないのに顎のリンパが腫れてるねと言われて、妊婦さんの検診の時によく見るちょっと憧れだったエコーを、顎で初体験したのもいい思い出だ。


とりあえず湿布かなんか薬が出されて(記憶はないけど)その日は終わったけど、次の日に熱がガンと上がって、この症状はもしや、、と診療所よりもお世話になってたクリニックへ行くことになった。


そのクリニックには、インフルエンザなど広がるとまずい病気の疑いのある人用の待合室があり、そこへ入ることも子供の時は病気ながら特別扱いされたように思えて嬉しかったけど、この歳になっておたふく疑惑の私は玄関からそこへ直行するように言われ恥ずかしくてたまらなかった。


結果はおたふく風邪。私は小さい時に罹ったことがなかったのだ。都心ではいつでも流行ってるようなもんだからどこかでもらってきちゃったんでしょうと優しい熊のような先生は話し、帰省期間を延ばし休むことにした。


顔はどんどん腫れ上がりご飯は食べられず熱にうなされ、トイレで見る自分の顔がマツコデラックスさんのようになった。小さい子のおたふくは可愛いけど、大人になると悲惨ってこのことも言うんだね。可哀想に。と言いながら、おかーが私の写真を撮り姉ちゃんに送り姉ちゃんが爆笑したという酷いエピソードも忘れてはいない。


妹は小さい時に罹ったのを見ていたけど、そもそも両親は大丈夫なのだろうかと思って、念のためおとーにおたふくやったことあるのかを聞いてみた。


「おばあちゃん(自分の母親)がやってないって言ってないからやったべなー」


そんな勝手な解釈をした回答があるだろうか。おとーはこんな人だ。聞いたことないからこうだろうと解釈するのだ。ひねくれ者なのだ。


男の人は大人になってからだと良くないという中途半端な知識で聞いてみたのだが、後から考えるともう子を望む歳でもないし結果移りもしなかったしよかったのだけど、あの答え方はおとーを象徴する一つだなと思う。


癌なんてそんなことあるんだと思った日

検査の結果、じーたんは癌だったそーだよ。

今年の初めにおとーにとっては初孫となる第一子を産んだ姉ちゃんから姉妹のLINEに連絡が入って、やっぱりそうだったかと、こんな日が私たちにも来るんだとそう思った。妹からは反応がなく相当ショックを受けているのだろう。

やっぱりということはそうなのかもという前置きがあったわけで、長く患っていた痔がそれはそれはひどい痔瘻で、いよいよ耐えられなくなって病院に行ったところ、急いで検査をしないとと大学病院に回されたとおかーから連絡があったのだ。

痔なのになんでそんなに検査するの?ってくらいの数の全身の検査をし、中には保険がきかないとかいう検査もあるとか言ってるし、あれ、これはやばいやつだとここ数週間そわそわしていた。

結果は痔瘻が原因で癌になってて、放射線治療で小さくしないと手術できないくらいでかいときた。今の大きさで取るとなるとお尻がなくなるそうだ。そんなでかいことあるわけ?
他に転移がないのかを調べるのにまだ検査は続くらしい。


そもそもなんでそんなになるまで放置してしまったのか、もとい、「我慢し続けた」のか。早めに病院に行っていたら防げたであろう癌。何やってんだか。

でも娘の私は少し分かる。よく言えば寡黙で無口、悪く言えば恥をかきたくない高いプライドを持つ、変な我慢強さを持つ津軽の男の中の男であるおとーを。

現時点でこの先どうなるのかわからないけど、おとーの娘として今まで感じてきたことやいろいろな出来事を思い出しながら書いてくことに決めました。

おとーは感情がよくわからない。いつもどんなことを思ってたのかとか、何してる時が1番楽しいのかとかいまいち掴めない人だ。

そんなおとーとの思い出とか、おとーはどんな人なのかとか、書いたら形になって残るかなと思ったし、残したいと初めて思った。